なぜ生きるのか?
そう問われたらあなたはなんて答えますか?
またこの問いに対してどのような「答え」を持ち合わせていますか?
私はまだまだ未熟な若者です。
それでもこれまで一丁前に「なんで生きるのか?」
このようにいつも自問自答していたような気がします。
生きる理由や目的が明確だったらいいのに。
もしそのようなものがあれば、人間迷わずに生きていけるのかもしれないし、憂鬱な思いで出勤する日も無くなるのかもしれません。
しかし一方で人間が生きなくてはいけない理由や目的がもし明確になってしまったら、それはそれで窮屈な思いをするのではないか?という思いもするのです。
このようになんとか毎日生きていけるのは、理由や目的もなく生きられる、完全無欠な自由を手にしているからだとも思うんですね。
なんで生きるのか?このような問いを誰しもが一度は自分に投げかけたことはあるはずです。
まだまだ年齢的にも精神的にも未熟でペーペーな筆者ではありますが、なぜ生きるのか、自分なりの見解をまとめてみました。
なんで生きるんだろう?
なんで生きるのか?まずはこのことに関してみなさんがどのように考えているのか?
また筆者の考えも踏まえながら見ていきたいと思います。
一般論
まずは一般論からです。
「なぜ生きるのか?」という疑問は誰しもが一度くらいはもったことがあると思います。
筆者もこれまで何度となく思ってきました。
その疑問に対し、よく世間で聞かれる回答は、
- 死んだ後どうなるかわからないから生きる
- 死ぬために生きる
- 生きている間しかつらい経験も楽しい経験もできない。だからとにかく毎日を楽しむために生きる
- 明日何が起こるかわからない。それが楽しみだから生きる
- 煩悩を消して涅槃の境地がどういう場所なのか?そこを目指すために生きる
- 生きるんじゃない、我々は生かされているんだ
こういった回答がよく世間一般からは聞かれます。
割とまともな意見もあったと思います。
今回この回答を聞いて少しでも腑に落ちた部分があればそれはそれで良いと思います。
どうせ死ぬのになぜ生きるのか
「なぜ生きるのか?」この疑問が生じてしまう背景には、恐らくどうせ死ぬのになぜ生きるのか?
なぜよりよく生きる必要があるのか?
このような考えが人間について回るからだと思います。
これもごもっともな意見ですね。
私もそう思いますもん。
この「どうせ死ぬ」という絶対的なあらがうことのできない事実が目の前に鎮座しているために「なぜ生きるのか?」という疑問が生じてしまうと思うんですね。
これに対しテレビなどにも出演している著名人である名越康文さんがある一冊の本の出版を通して、今回の「なぜ生きるのか?」という問いに対して言及しています。
精神科医である著者が、この問いに初めて向き合ったのは10歳のときだたっといいます。
私より遥かに若いですね。笑
それから40年経った今、この問いに実践レベルで答えが出せるのは仏教しかないと著者は確信し、日常の中でその教えを実践しているというのです。
この書籍はレビューも高く、多くの人に支持される書籍でもあるので、ぜひ今回を機に手にとってみてはいかがでしょうか?
筆者なりの考え
続いては筆者なりの考えです。
ここは少し長くなります。
なんで生きるのか?このようによく考えるようになったのは大学生くらいの頃からだった思います。
大学がつまらなくてバイトばかりしていた時期ですね。
人生がつまらなかったんだと思います。
高校生のときは私はサッカー部に所属していて、毎日大好きなサッカーができていたので、充実していましたし、実家暮らしで心にも平穏がありました。
それが大学にでてからは大好きなサッカーもやめてしまい、単なる田舎小僧が多くの人が行きかう、東京に進出、見慣れない町で暮らし、多くの見知らぬ人に囲まれながら生活。
さらに家に帰っても誰もいない生活。
またバイトを本格的に始めて、社会にでることの厳しさ、お金を稼ぐことの厳しさ、そういった様々な経験をした時期でもありました。
初めて経験することが多かったり慣れないことを多くする時期でもあったので、おかげで様々なことを考えるようになりました。
その中のひとつとして「なぜ生きるのか?」というビッグクエスチョンが私の頭の中に初めて出現したのもこの時でした。
当時はなぜ生きるのか、そんな疑問には自分なりの未熟な答えをあてがうしかありませんでした。
それでも1つの光のごとく、そんな行くあてのない疑問に寄り添ってくれたのが当時一世を風靡した歌手のYUKIさんがワンダーラインという曲の中でいっている、
というワンフレーズです。
YUKIさんがソロ活動を本格的に始めた時期で、私も彼女のことが大好きだったのですが、実にパワフルなYUKIさんらしい歌詞ですよね。
当時この歌を聞いてなんだかすごく勇気をもらえたんです。
当時は本当にYUKIちゃんばかり聴いていました〜
その歌詞がいわんとしていることがなんなのか、当時の私ではわかるはずもありませんし、未だこの歌詞が意味する本当のところというのはわかりません。
しかし素直にその言葉を飲み込むだけで、自分の頭に言い聞かせるだけで、なんとなく生きる勇気がわいてきたし当時の若造にすれば、そんな漠然とした安心感だけで十分でした。
なぜ生きるのか?今大人になってみて、そのことをきちんと考えようとしてもやはりその答えはわかりません。
しかしこれもあるお寺のお坊さんが言っていたことなのですが、
我々の体というのは食べたものを無条件で消化してくれる。息を吸ったら今度は無条件で息をはいてくれる。こちらが指示をしなくても無条件にこの心臓は絶え間なく、寝ている間でも動いてくれる、働いてくれる。自分の考えや、脳みそはそういった無条件で働いてくれる、慈悲深い体に感謝するために使ったらいいんじゃないか?
と言っていたんですね。
これにも大変救われました。
生きる意味、確かに頭で考えると、それはもう途方もないことです。
たぶん人によってその答えは違ってくるはずですし、もしかしたら明確な答えなど存在しないのかもしれない。
しかしそういったことを疑問に思えるのも、個人ひとりひとりが悩んだり、答えをだしたりできるのもたぶんとてつもない大きい「何か」によって生かされているからだと思うんです。
悩めたり、疑問に思えたりできる。
ここをまず感謝してみるべきなのではないかと。
そしてそれはつまり自由だから、できることだし、体に何不自由なことがひとつもないからできることでもあるからです。
そのように思える時点でとてもありがたいことなんだとそう思うようになりました。
なぜ生きるのか?その答えはまだ見つかりません。
しかし少なくともそのように思える時点できっと幸せなことなんだなと思えるようになりました。
坂口安吾の書
坂口安吾の著書に『なぜ生きるんだ。―自分を生きる言葉』というものがあります。
坂口安吾ってみなさん知っていますか?
そう「砂の器」を書いた作家です。
非常に奥ゆかしい言葉を使って、幻想的な物語を書く作家として有名ですが、こんな人間臭い小説も書いているんですね。
いつか読んでみたいなぁ。
ブッダの場合
また今回の「なんで生きるのか?」という疑問に対し、我らがブッダ様はこの疑問に対してどのように思われていたのでしょうか?
ブッダは仏教をお開きになった方で、誰よりもこの「なぜ我々は生きるのか?」という疑問に真摯に向き合い、そしてその答えにたどり着いた方です。
そんなブッダは実は、
生きること自体には意味などない
と述べているんです。
人間が死ぬことを避けられないのは事実で、ましてや「どうして生まれてきたのか」という質問には誰も答えられないというんですね。
この世界には人間だけでなく、ネコやウサギ、イヌ、アメンボなど様々な生物が存在しています。
またそういった生物は歳を取りながらいずれ死んでしまいます。
一方で電柱やPC、壁、コンクリートといった無機質なものも一秒一秒、風化されており、目には見えませんが確実にその姿を変えています。
そしていずれは形がなくなってしまうのです。
気づかないというか、とても信じ難いですが、それも立派な生命活動の一つですよね。
例えばわれわれ人間が死ねば、いまであれば大切にその遺体は火葬をされ、そのあと骨になります。
その際我々の血肉は気体となり、宙へ舞うことでしょう。
その作用がもしかしたら雨をふらし、その雨があたらしい生命を生み出すかもしれません。
先ほどのコンクリートや鉄も同じですね。
彼らには我々のような目に見える明確な「生と死」があるわけではありません。
しかし彼らは確かに存在し、その存在する過程で、確実に姿かたちを変え、全世界に影響をあたえ続けています。
そして何かしらの現象を生み出し、命を作り出しています。
例えば今目の前の壁を殴ったとして、自分の手が痛い。
これも立派な生命を生み出す活動です。
壁によって「命」が生じた証です。
つまりこの世のあらゆるものは生きては死にを繰り返し、循環しているというのがブッダの教えなんです。
生きているのは人間だけじゃないということですね。
イヌやネコだけでなく、電柱やコンクリート、鉄も見方を変えれば生きているということなんです。
そしてそれらすべては存在する中で何かを生み出したり循環しているということなんです。
人間からすれば「なぜ生きるのか?」これは大変重要な問題だと思います。
しかしそう思うのは人間だけで、ネコやイヌはそんなことは思わずに生きている。
毎日堂々と生きている。平然と生きている。
人間に至ってもそう思っても思わなくても、仮にその問いに対する立派な答えがみつかっても、この絶対的な「循環」には逆らえない。
生命の在り方や正体には抗えない。
人間がよく考える「生と死」というのはまるで自分個人の命がいつの間にか生まれ、存在し、そしていつかなくなってしまう、そのような限定的な「生と死」であるのに対し、ブッダは生と死というのは個人の持ち物ではなく、世界の持ち物である。
猫や犬にとっても同じ問題なのある。
個人の死だと思っているものでもその死が別の生命を生み出すわけだから、それは死ではない。
そもそも「生と死」というのは存在しない。
同一のものであるというのがブッダの考えというわけです。
これがブッダがその生涯をささげ辿り着いた考えなのです。
そもそも人間が生きるとは?
「生きる」とは、人間や動物が生命を保ち、活動できる状態にあることを意味します。
「生きる」の類義語には、「過す」「活きる」「生活」「遣って行く」「暮らす」「やって行く」「暮す」「起居」などがあります。
「生きる」の意味は、次のようなことも含みます。
- 生計を立てる
- 生活する
- そこを生活の本拠として暮らす
- 意識的能動的に毎日を過ごす
- そのことに生きがいを見出して日々を送る
「自分の人生を生きる」とは、ありのままの自分で、幸せを感じ、自分の納得した生き方を送っている状態を言います。
ポジティブな感情やネガティブな感情も含めて、自分の納得した人生を送っている状態です。
精神科医は、「生きる意味」「生きる目的」を考え、悩むことは良いことだと述べています。
正解を求めて「結論」を出すことではなく、考え続けて自分なりに意味を見出していく「過程」が大事なのです。
精神科医の考える人間が生きるとは?
かなり暑苦しいコラムとなってしまっており恐縮です。
ここで少し箸休めをしましょう。
さきほどの名越康文さんに因んで、世の精神科医が考える「人間が生きる」とは?どういったことなのかについて目を向けてみたいと思います。
そもそも「生きる」とは、人間や動物が生命を保ち、活動できる状態にあることを意味します。
ちなみに「生きる」の類義語には、「過す」「活きる」「生活」「遣って行く」「暮らす」「やって行く」「暮す」「起居」などがあります。
さきほども述べたようによく世間で言われる「自分の人生を生きる」とは、ありのままの自分が、幸せを感じ、自分の納得した生き方を送っている状態を言うそうです。
ポジティブな感情やネガティブな感情も含めて、自分の納得した人生を送っている状態のことですね。
ある精神科医は「生きる意味」「生きる目的」を考え、悩むこと自体が良いことだと述べています。
正解を求めて「結論」を出すことではなく、考え続けて自分なりに意味を見出していく「過程」が大事で、それこそが悩める能力をもった人間だけが感じることのできる特別な「生きる」あり方ということではないでしょうか。
人生に目的などなくても生きていける
例えばあなたは幼いころ特定の人間から酷い仕打ちをされたとします。
複数の人間からいじめられ、家族も虐げられ、住む家も追われてしまった。
なぜ自分たちばかりそんな思いをさせられるのか?
その特定の人間に対し、あなたは恨みをもつようになります。
しまいには大切な家族の命すらもその人間に奪われてしまったとしましょう。
あなたはかならずその人間に復習することを誓います。
そのような人間からすれば人生の目的など考える暇もありません。恐らく彼からすれば生きるための原動力は憎しみだけです。
しかしその憎しみが彼の人生の潤滑油となっているのもまた事実です。
つまり目的などなくても、決まっていなくても人は生きていけるんです。
その憎しみが場合によってはその人にとっての生きる目的になっているわけで、人によって目的があったり、なかったり、またあったとしてもその形が全然違っていたりするんです。
それでもさきほども述べたようにどんなに人間であっても無条件で心臓を動かしてくれたり、呼吸をしてくれたりする大切な健康な体があるため私たちは生きていけます。
なんで生きるのか?それが明確になった時
答えが出たような出ないようなそんな歯切れの悪い、コラムとなってしまい恐縮です。
ただ残念ながらここまでで明確な答えを提示できたわけではないので、読者のみなさまにはあまり満足いただけていないのが現状だと思います。
そこでここでは仮になんで生きるのか?これが明確になったとして、我々の人生にはどのような恩恵がもたらされるのでしょうか?
あるいは失うこともあるかもしれないのです。
本当はどっちがいいんんだろう〜。答えはあって欲しい気もするし、そんなものはなくていいと思っている自分もいる・・・。
なんで生きるのか?それが明確になった時に考えられるメリット
まずメリットから考えていきたいと思います。
なんで生きるのか?それがわかれば意欲的に生きていけるというのが大きいと思います。
仕事や家事などで毎日おなじことを繰り返しているとどうしても閉塞的になりますからね。
それでネガティブなことを考え出したり、生きるのがつらくなったりしてしまうのです。
しかし仮に「なんで生きるのか?」これが明確になったとき、どんなに毎日退屈でも、たまにつらいことがあっても、どんなことがあっても乗り越えていける気がしてきます。
私もそんな答えが欲しいですもん。
仮に、「そんなものはない!単なる人間の自己満足だ!」と言われても、確かに我々は人間であるわけだし、人間という小さい枠組み内の話であってもそれもそれで立派な答えじゃないですか。
むしろそれがすべてというか、イヌ、ネコの立場、そんなものは我々人間からすればそれこそどうでもいい話であって役に立たない話であるわけですから。
なんで生きるのか?それが明確になった時に考えられるデメリット
一方でなんで生きるのか?それが明確になった時に考えられるデメリットもあると思っています。
例えばもし生きる目的が「美人の女性(イケメン)と結婚をし、その者と一緒に子孫を繁栄していくことだ!」といった答えだったらどうしますか?
私のような不細工な男だったら絶望しきってしまいますし、生きるのをやめたくなってしまうかもしれません。
また「人間が生きる目的はお金を1億稼いで優雅に暮らすことだ!」と決められてしまったら、どれほど多くの人が失望することでしょう。
目的を達成するために略奪や犯罪が蔓延する世の中になってしまうかもしれません。
人によって幸福の価値観は違います。
また仮にどんなに小さいプロジェクトを遂行する上でも目的を持ちながら取り組むことが良い人とそうでない人とがいます。
それが人生という大きなプロジェクトになったとき、やはりそこにも目的があることが良い方向に傾く人と、そうでない人とがいるのです。
なぜなんで生きるんだろうと考えてしまうのか?その原因について
そもそもなぜ「なんで生きるのか?」このように思ってしまうのでしょうか?
ここではその原因について探っていきたいと思います。
- 生きる意味がわからなくなってしまった、目標を見失った
- 毎日がつらい、つまらない
- 人生に目的が欲しい
- 自分の存在意義がわからない
- うつ病の可能性
生きる意味がわからなくなってしまった、目標を見失った
まず突然生きる意味が分からなくなってしまったり、目標を見失ってしまったというのが大きいと思います。
それまでは「サッカー選手になるんだ!」という目標がありました。
そのためにも毎日努力ができた、辛い練習にも耐えることができた。
しかしどうやらその夢もかなえられそうにない。
それまで人生をささげるほど夢中になれるものがなくなった、目標を見失った。
このような状況になると今度は「なんで生きるのか?」このように思われてきます。
実際に私がそうでした。
実は私は根っからのサッカー小僧だったんです!
毎日がつらい、つまらない
みんながみんな目標や夢があるわけではありません。
中にはただなんとなく毎日を生きている人も多くいます。
そんな人でも生きていくためにはお金を稼がなければいけない、働かなくてはいけない。その毎日のくりかえしが辛いし、つまらない。
しかも目標も夢もない。
このような悪循環とも言える日々を我々人間は毎日送っております。
そして仕事をしていてふとした時に思ってしまう「なんで生きるんだろう」と。
人生に目的が欲しい
ポジティブな見方もあります。
意欲的に生きている人であれば、物心がつき始めるのと同時に日々の繰り返しに目的が欲しいと思うようになります。
ひいては人生に目的がほしいと思うようになります。
なぜなら目的をもって生きた方が楽しいし、長い人生を有意義に過ごせるからです。
そしてそこで「生きる目的」とは何かを見つけようとしたり、疑問に思うようになるんですね。
自分の存在意義がわからない
中には自分の存在意義がわからなくなってこのように思う人も本当に多くいると思います。
職場の人に虐げられる、能力がないので何の役にも立たない、誰の役にも立てない。
だんだんと自分の存在意義がわからなくなる。
自分などいなくてもいいのではないか、そのように非常にネガティブな考えを持つようになり、なんで生きるのか?と考えてしまう。
うつ病の可能性
また場合によってはうつ病の可能性も疑いましょう。
うつ病はれっきとした病です。
精神病です。
うつ病になるとネガティブなことばかり考えるようになるだけでなく、今回の「なんで生きるのか?」といった壮大なテーマももちだすようになります。
うつ病にかかるのはさまざまな要因があるとされています。
余計なお世話かもしれませんが遺伝的な要因もあると言われておりますのできちんと病院へ行って診察してもらうようにしましょう。
なんで生きるんだろうと考えることの多い世代やジャンル
最後です。
なんで生きるんだろうと考えることの多い世代やジャンルについて考えてみたいと思います。
- 社会人
- 40代
- 大学生
社会人
まずは社会人です。
働いている人の中にはこの葛藤と戦っている人が本当に多くいるのではないでしょうか?
とくに働き始めたばかりの新卒の方というのは、体や思考がまだ社会になれず、こういった疑問をかかえがちです。実際に私がそうでした。
働くこと自体がつらいのに、毎日遅く、自由な時間すらつくれない、帰っても寝るだけ。
毎日おなじことの繰り返し。
何が楽しくてこんなことをしているのか、自分の存在意義がわからなくなる。
何度も何度も「なんで生きるのか?」という疑問を持ちました。
40代
もう少しで私も40代に差し掛かります。
新卒の時と比べ、仕事にも慣れた。
しかし依然なぜここまでして働くのかわからない。
そういったことをこの40代くらいになると考え出すのではないでしょうか?
中には自分に子供がいても「なぜ生きるのか?」という疑問をもっている。
人生に意義を見いだせないまま、その一方で職場では重役を担うようになり、負担ばかりが大きくなる。
このような人が実際に多くいるようです。
実際に私の知り合いにも、中学生くらいのお子さんがいるというのに「なんで生きるのだろうとよく考えてしまう」という人がいます。
かわいい子供がいても、どんなにお金をもっていたとしても、きっと考えてしまう人は考えてしまうのでしょうね。
大学生
個人的にはこの大学生の時期がいちばん多く「なんで生きるのか?」という疑問をもった時期だと思います。
私の場合毎日が暇だったということもありますし、友達もいないし、やることもなく、一人でいる時間が多かったというのもあったと思います。
またバイトを本格的に始めたのがこの大学生の時期だったのですが、社会の厳しさ、生きることの大変さ、そういったことをまざまざと知ったのがこの大学生の時期でした。
おなじような境遇の人はきっと多くいるはずです。
生きるためにはお金が必要です。
その先にどんな目的があったとしてもまずは食べたり、税金をおさめなければ生きていくことができないのです。
そういったことを初めて知った時期でもありました。
そのせいできちんと改めて「なんで生きるのだろうと?」と考えるようになったのですが、今であればそう考えるようになれたのは大切なことだったとポジティブな意味で受け止めています。
同じように思っている大学生はきっと多くいるはず。みんな!キャンパスライフをもっと楽しんで!笑
なんで生きるんだろうに関する疑問
- なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐えるとはどういう意味ですか?
-
これはニーチェの有名な言葉ですね。
それに対しこのような解釈がされています。
まとめ。なんで生きるんだろうと思うのは自然なこと。どんな自分も受け入れてみては?
「なんで生きるのか?」この疑問は非常に奥が深いテーマです。
なのですみません、やはり私のような凡人にはその答えを導き出すことができませんでした。
ここまでせっかくお読みいただいたのに申し訳ありません。
現代は昔と比べて便利な世の中になったと言われております。
なので昔と比べて人は豊かになったのか?と言われれば決してそんなことはないと思うんですね。確かに昔の方が人は豊かだったかもしれません。
しかしだからといってこの「なんで生きるだろう?」という疑問を昔の人は持たなかったのか?と言われればそれも決してそんなことはないと思うのです。
いつの時代であっても、どんなに裕福な人であっても人は必ずこの「なんで生きるのか?」という疑問にぶちあたるはずです。
そしてその疑問に自分なりの答えを見出す者、そんな自分なりの答えすら見いだせず死んでしまう者、中には真実の答えを見つけ出す者もいるのかもしれません。
ブッダはそんなものに答えはないと言われました。
しかしそれが本当なのか実際誰もわからないですよね。
もしかしたら答えはあるのかもしれない。
そのように心の片隅でどこか淡い期待を持ちながら私は生きていきたいと思います。
また人生に目的を見出すために子供を作るのもいい、趣味を作るのもいい。
何をしてもいいと思うんです。(犯罪以外は)
ありがたいことにいまは便利なものが本当に多く増えましたし、昔と違い個人の意見も尊重されやすくなりました。
本当にありがたい時代です。
繰り返しになりますが我々は何をしてもいいんです。
いくらでも悩んでいい。
そのための体や脳みそが備わっていますから。
なので日々この体にだけは感謝を忘れないようにしたいですね。
コメント