生きていくことは辛いことです。
例外なくそれは誰にとっても同じことだと思います。
お金を稼がなければいけない。仕事をしなければいけない。その職場で責任を負わなければいけない。
あるいは家事をしなければいけない。子供を育てなければいけない。学校に行かなければいけない。嫌いな生徒と毎日顔を合わせなければいけない。
それぞれに置かれた状況は違えど、生きるためには様々な問題と向き合いそして解決しなければなりません。
その過程はすごく憂鬱です。
私もこれまで何度「生きるのが辛い」と思ったか数しれません。
その度になぜ生きるのか?なんで生きなくちゃいけないのか?生きる意味とは?
このようなことを考えてしまいます。
自分はまだ未熟なため、そんなたいそれたテーマを当然明確化することができず、答えが出ないまま毎日を生きています。
この記事をご覧の皆さんの中にも同じような疑問を抱えている人がきっと多くいると思います。
生きる意味がわからなくなった時、あなたならどうしますか?本記事ではぜひ自分自身と対話するような気持ちで私の声に耳を傾けてみてください。
なぜ生きる意味がわからなくなってしまうのか?5つの原因

生きる意味を考える前に、なぜ生きる意味がわからなくなってしまうのか?その原因について私ならではの場合に当てはめてお伝えしたいと思います。
- 人生に目標がない
- 毎日目標もなく働く、その繰り返しに疲れてしまった
- 生きる術がわからない、ないから
- そもそもの生きる意味がわからない
- ネガティブな性格が関係している
人生に目標がない
私はこれまでに何度も生きる意味がわからなくなってしまう時がありました。
個人的にはそのような時は人生に目標がなかったからだと思っています。
私は幼い頃からサッカーが大好きでした。小中高、社会人に至るまでサッカーをやっていて、まさにサッカー三昧の日常だったんですね。幼いときはありがたいことに周りからも自分の実力が評価され、結構良い成績も残すことができました。
しかし大学になり、自分の実力が通じないことを悟り、第一線から退きました。
その時それまでの人生で経験したことのないような喪失感に襲われて、生きる意味がわからなくなってしまったのです。
それまでサッカー選手になることが私の夢で、そのために日々トレーニングを厳しく行って、空いた時間で筋トレを行ったり、食事に気を使ったりと、とにかくストイックに生きてきました。
辛い時もありましたが、毎日が充実していて、それまで生きる意味など考えたことがありませんでした。
考える暇がなかったというか。
目標は人生の節目節目もそうだし、予期せぬときにも生まれると思います。そしてその目標が例外なくその人を躍動的に動かす、原動力にもなるはずです。目標があるというのは実にいいことです。
夢や目標があるから、毎日を楽しく、有意義に過ごすことができます。
しかしその目標がなくなった瞬間、生きる意味がわからなくなってしまったという人はきっと私だけではないはずです。
毎日目標もなく働く、その繰り返しに疲れてしまった
そういったことを考えると、大人になってしまうと大きな目標や夢を維持し続けるのは難しいことなのかもしれません。
それでも毎日好きなように過ごせれば、それはそれで楽しい人生になるはずです。
しかしそれができる人間がなかなかいません。
働かなくてはいけないからです。お金を稼ぐ必要があるからです。
現在のシステムでは、お金を稼ぐためには会社に属し給料をもらうか、個人で稼ぐしか術がありません。
すみません、話が脱線しました。
原動力となる夢や目標もない。にもかかわらず毎日好きなように過ごすこともできない。ましてや会社に行かなくてはならない。さらにその会社ではこっぴどく上司に怒られ、後輩にバカにされる。
このような状況では生きる意味など見出せなくて当然です。
ただそのはほとんど頭の中だけの問題で、概念に苦しめられているだけなのです。
人間関係だったり、ストレスだったり心労が原因で苦しんでいるということも忘れてはいけないのかなと思います。
生きる術がわからない、ないから
さらに大変な状況なのが上記の2点に加えて、生きる術がなかったりするパターンです。
例えば就職できなかったり、お金の稼ぎ方がわからなかったり、お金を稼げてもそのお金の使い道がわからなかったりした時です。
生きていくためにはお金を稼がなければいけません。なのでその収入源を確保できないとなると、これは大きな問題です。
大半の人が企業に就職する形でその収入源を得ていますが、その就職ができない。
私も過去に就職に何度も失敗していまして、心労もそうですが物理的にもう生きていけないという状況に追い込まれたこともありました。その時の不安感と言ったらなかったです。
なのであのような経験をしないためにも自分で稼ぐ術を身につけなければいけないなと思ったわけです。
またこれは少数派かもしれませんが、お金を稼いでもそのお金を実生活の運営に落とし込まなければ生きていくことはできません。
せっかく稼いだお金を全てギャンブルに使ってしまったり、高級ブランド品に使ってしまったり、飲み代に使ってしまったり。
それでは有意義に人生を生きていくことができません。
お金の正しい使い道がわからないことが原因で生きる意味がわからなくなってしまうこともままあるのです。
もちろんお金の使い道は人それぞれですし、そのようなことをかえって人生の楽しみにしている人もいるはずです。
ただ人生を有意義に生きている人はこのお金の使い方が非常に上手です。仮に少ない金額だとしても自分の納得のいく形でお金を使えていれば、そこから人生の目的に繋げられるはずです。
そもそもの生きる意味がわからない
しかし、でも誰が一体人生は目的を持って生きなければいけないと言ったのでしょうか?
人生はこうでなければいけないということが果たしてあるのでしょうか?
詳しくはまたお伝えしていきますが、そもそも人間が生きるとはどういうことなのでしょうか?人生の意味や意義がわからないという人は私も含めて多くいるはずです。
↑の記事でも語っていますが、生きる意味を見出せないため、なぜ生きるのか?生きる意味がわからないと言ったことになってしまうと思うんですね。
もし人の人生に明確な意図や目的があれば、それを忠実に守っていけばいいだけです。
誰も迷わずに生きていけるはずです。
しかしそうではないから、これだけ多くの人が悩んでしまうわけですよね。
お金を稼ぐことなのか、子孫を作ることなのか、悩みなく生きていくことなのか、両親に尽くすために生きていくことなのか、楽しんで生きていくことなのか。
人生の目的は人それぞれでいいとみんなが言っています。
しかしそれで悩む人も少なからずいるのです。
確かにそのような悩みは自由に生きられている証拠でもあり、昔の人からすればそれは大変ありがたい悩みなのかもしれません。
ですが昔の時代であってもも生きる意味について真剣に考え、心を煩わせていた人というのは必ずいたはずです。
何も有事がない今、そのようなことを考える人が非常に増えていて、それが人々の悩みの種となっているのです。
ネガティブな性格が関係している
また人間が生きる意味がわからなくなってしまうのは、ネガティブな性格が大きく関係しています。
- 生きているのが苦痛だ
- なぜ生きるべきかわからない
- どうせ自分だけ成功しない
- 自分が生きていても意味がない
- もう消えてしまいたい
このように考えてしまうのも珍しくありません。
ほんとうにネガティブな性格なんですよね。
仕事を行く前とかかなりこのネガティブシンキングに襲われまして、毎日辛いです。
それに加え極度の心配性でもあります。
ポジティブな方向にシンキングチェンジができればいいですが、なかなか簡単にはいきません。
生きる意味とは?なぜ生きなければいけないのか?

それでは次に生きるとは何か?なぜ生きなければいけないのか?についてより解像度を上げて考えてみたいと思います。
筆者なりの考え
まずはこのことに対して筆者なりの考えからお伝えします。
先ほどもお伝えしたように小中高と私はサッカー部に所属していました。当時は毎日大好きなサッカーができていたので、心身ともに充実していましたし、実家暮らしのおかげで特に心に平穏がありました。
それが都内の大学にでてからは実力が通じないせいで大好きなサッカーもやめてしまいました。そのサッカーをやめてからが大変でした。
単なる田舎小僧が多くの人が行きかう、東京に進出、見慣れない町で暮らし、多くの見知らぬ人に囲まれながら生活。
当然家に帰っても誰もいない、そんな生活。
またバイトを本格的に始めて、社会にでることの厳しさ、お金を稼ぐことの厳しさ、そういった様々な経験をした時期でもありました。
初めて経験することが多かったり慣れないことを多くする時期でもあったので、おかげで様々なことを考えるようになりました。
その中のひとつとして「なぜ生きるのか?」というビッグクエスチョンが私の頭の中に初めて出現したのもこの時でした。
当時はそんな大きな問題を抱えながら、生きていくことに葛藤を覚えつつも、なんとか生きていました。
そんな時ある雑誌でどこかのお坊さんが語っていた紙面に目が止まりました。
我々の体というのは食べたものを無条件で消化してくれる。息を吸ったら今度は無条件で息をはいてくれる。こちらが指示をしなくても無条件にこの心臓は絶え間なく、寝ている間でも動いてくれる、働いてくれる。自分の考えや、脳みそはそういった無条件で働いてくれる、慈悲深い体に感謝するために使ったらいいんじゃないか?
正確な文言が合っているか定かではありませんが、このようなことをそのお坊さんは語っていたと思います。
この言葉に当時の私は大変救われたのを覚えています。
生きる意味。このことを頭で考えると、それはもう大変途方もないことです。
たぶん人によってその答えは違ってくるはずですし、もしかしたら明確な答えなど存在しないのかもしれません。
しかしそういったことを疑問に思えるのも、また個人ひとりひとりが悩んだり、答えをだしたりできるのもたぶんとてつもない大きい「何か」によって生かされているからだと思うんです。
悩めたり、疑問に思えたりできる。
ここをまず感謝するべきなのではないかと。
今に至り、そのように思えるようになれたのは当時のお坊さんの言葉があったからです。
そしてそれは頭の回転が自由自在だからできることだとも思うんです。
残念ながら人はなぜ生きるのか?その答えはまだ見つかりませんし、生きる意味がわからなくなってしまうことも今でも多々あります。
その度に先ほどのお坊さんの言葉を思い返すようにしています。
生きる意味をブッダから学ぶ
今回の「なんで生きるのか?」という疑問に対し、仏教をお開きになったブッダ様はどのように思われていたのでしょうか?
ブッダは仏教をお開きになった方で、誰よりもこの「なぜ我々は生きるのか?」という疑問に真摯に向き合い、そしてその答えにたどり着いた方です。
今でもブッダの教えが日本には広く、多く根付いていて、ブッダを心の支えに生きている人も多くいます。
昔の人は本当にそのブッダの教えだけを心の支えにして生きていましたし、現代においてもそれでもいいと思います。
そんなブッダは実は、
生きること自体には意味などない
と述べているんです。
意外ですよね。
人間が死ぬことを避けられないのは事実で、ましてや「どうして生まれてきたのか」という質問には誰も答えられないというんですね。
この世界には人間だけでなく、ネコやウサギ、イヌ、アメンボなど様々な生物が存在しています。
またそういった生物は経過する歳月とともにいずれ必ず死んでしまいます。
一方で電柱やPC、壁、コンクリートといった無機質なものも一秒一秒風化されており、目には見えませんが確実にその姿を変えています。
そして長い歳月を経ていずれは形がなくなってしまうのです。
気づかないというか、とても信じ難いことですが、それも立派な生命活動の一つですよね。姿を変えるのは生きている証拠だということです。
ウサギやコンクリート、その両者の違いは短い命かの長い命かの違いでしかないんですね。
また例えばわれわれ人間が死ねばいまであれば、大切にその遺体は火葬をされそのあと骨になります。
その際我々の血肉は気体となり、宙へ舞うことでしょう。
その作用がもしかしたら雨をふらし、その雨があたらしい生命を生み出すかもしれません。
先ほどのコンクリートや鉄も同じですね。
彼らには我々のような目に見える明確な「生と死」があるわけではありません。
しかし彼らは確かに存在し、その存在する過程で、私たちと同じように確実に姿かたちを変え、全世界に影響をあたえ続けています。
というのもコンクリートや鉄というのも何かしらの現象を生み出し、命を作り出しているからです。
例えば今あなたが目の前の壁を殴ったとしたら、自分の手が痛くなるはずです。
これも立派な他者と自者の生命の重なりです。生命を生み出す活動です。壁によって私の「命」が生じた証です。
これに対しその「壁の存在」が「私の命」という言い方もできると思うんです。
つまりこの世のあらゆるものは生きており、そして生きては死にを繰り返しており、一つの箱の中で循環しているというのがブッダの教えなんです。その大きな循環をひっくるめて一つの「生命活動」ということですね。
その循環(生命活動)に我々人間だけでなく、猫や犬、コンクリートなども参加しています。
生きているのは人間だけじゃありません。
イヌやネコだけでなく、電柱やコンクリート鉄も、見方を変えれば生きています。
そしてそれらすべては存在する過程で命が重なりあったり、互いを生かし合っている。
孤独な人も、孤独に見えるだけで確実に「何か」の生命活動を助力しているし、この大きな循環に包括されています。ですから孤独じゃないんです。
ちっぽけな私の命にも「意味」があるということなんです。あなたの存在が誰かを存在させているというわけです。
すみません、ここまで実に偉そうに。ただ私はこの生きる意味に関して学ぶために、ブッダに関する文献をこれまで何度も読んできました。
人間からすれば「なぜ生きるのか?」これは大変重要な問題だと思います。
しかしそう思うのは人間だけで、ネコやイヌはそんなことは思わずに生きている。コンクリートや鉄も同じですね。
毎日堂々と生きている。平然と生きている。
確かに本当にそうだなぁと思うんですね。
人間に至ってもそう思おうが思わなかろうが、仮にその問いに対する立派な答えがみつかろうが、この絶対的な「法則」には逆らえない。
首相であっても、大統領であっても、有名人であっても、一般人であってもこの生命の在り方や生命の正体には抗えない。
人間だけの世界であれば確かに「生きる目的」とかそういうものがった方がより便利かもしれない。
しかしそれはただ便利かどうか?だけの話で、我々人間と犬や猫、コンクリートというのは同じ舞台に立って生きているわけです。
どんなにお金を稼ごうが、幸せに生きようが、目標を持って生きようが、ネガティブに生きようが「命のあり方」というのは決して変わらないんですね。
人間がよく考える「生と死」というのはまるで自分個人の命がいつの間にか生まれては生き、そしていつかなくなってしまう。そのような限定的な「考え方の生死」であるのに対し、ブッダは生と死というのは個人の持ち物ではなく、世界の持ち物である。猫や犬にとっても同じ問題なのであると教えています。極論、自分が死ぬときは世界も死ぬときだと言っているんですね。
個人の死だと思っているものでもその死が別の生命を生み出すわけだから、それは死ではない。そもそも「生と死」というのは存在しない。同一のものであるというのがブッダの考えというわけです。
生や死というのは初めから存在しないというか、無であるというか。
これがブッダがその生涯をささげ辿り着いた考えなのです。
なぜどうせ死ぬのに生きなければいけないのか?
しかしそれでもどうせ死ぬのになぜ生きるのか?という疑問はなかなか拭えないと思います。
これもごもっともな意見ですね。
私もそう思いますもん。
この「どうせ死ぬ」という絶対的なあらがうことのできない事実が目の前に鎮座しているために「なぜ生きるのか?」という疑問が生じてしまうと思うんですね。
ここに関してはもうどう解決したらいいのかわかりません。笑
これに対しテレビなどにも出演している著名人である名越康文さんがある一冊の本の出版を通して、今回の「なぜ生きるのか?」という問いに対して言及しています。
精神科医である著者が、この問いに初めて向き合ったのは10歳のときだたっといいます。
私より遥かに若いですね。笑
それから40年経った今、この問いに実践レベルで答えが出せるのは仏教しかないと著者は確信し、日常の中でその教えを実践しているというのです。
この書籍はレビューも高く、多くの人に支持される書籍でもあるので、ぜひ今回を機に手にとってみてはいかがでしょうか?
もしあなたが大切な人に生きる意味がわからないと言われたら?
これは余談です。
もしあなたが大切な人に生きる意味がわからないと言われたらどうしますか?
このようなコラムを書いていてなんですが、結構ショックですよね。笑
自分が大切に思っている人であれば、尚更ショックだと思います。
そして恐らく的確な助言はできないと思うので、その場合まずはその人が「うつ病」の可能性があるのではないか?と考え、ただただ相談に乗ってあげてください。
そして場合によっては医者に行くなどの選択もおすすめしてあげてください。
あなたからすれば、それは俺も同じだよ!と思われるかもしれませんが、ちゃんと真摯に相談に乗ってあげてほしいんですね。
もしかしたらあなたにとっても何か解決への糸口を見つけられるかもしれません。
そしてぜひ今回お伝えしたブッダの考えだけでもお伝えしてあげてください。
生きる意味がわからなくなってしまう世代はどの世代?

それでは今回の生きる意味がわからなくなってしまう事象に対し、そのような事象に襲われるのはどの世代の間で多いのでしょうか?
要するに生きる意味がわからないと考えがちな世代やそれに基づく背景とはどのようなものがあるのでしょうか?
中学生
中学生くらいの時期はよく思春期と言われますが、この時期に人は様々なことを思うようになります。
その中にこの生きる意味についても含まれることでしょう。
また小学校とは違い、他との兼ね合いを強く意識するようにもなり、他人と比べたり、人間間のグループ化が生じたりします。
個人的にはそのグループ化が人を苦しめる最大の原悪だと思っているのですが、要するに大人の世界に片足を突っ込み出す時期なのです。
また異性に対し興味を示す時期でもあるので、本当に様々な問題が一気に生じてくる時期がこの中学生です。
例えば好きな人ができて、その好きな人とお付き合いしたいと考えるようになって告白してみたが、結果フラれてしまった。
その際生きる意味とは何なのか?と考えてしまったり、人生に大きく失望してしまったりします。
このような経験は中学生くらいから発生します。
大学生、新卒社会人
また次のターニングポイントとして大学生や新卒の社会人というのもまた別の意味でこの生きる意味について考え出す時期です。
というのも「働いてお金を稼がなければいけない」という問題が自分の人生に発生するからなんですね。
それまでの義務教育の場と違い、自分の力で考えたり、人生を生きていかなければいけないのです。
私もそうですが大学生で初めてアルバイトを経験しました。働くことの大変さ、お金を稼ぐことの大変さ、何時間も休憩なしで働くことの大変さ。
そういったいわゆるお金を稼ぐことの大変さを感じるのがこの時期なのです。
生きるためにはお金を稼がなければいけませんが、お金を稼ぐことの大変さ、何のためにお金を稼ぐのか、その正しい使い道は何なのか?
こうした葛藤が生じてくる時期です。
20代、30代
そこから少し成長した20代後半から〜30代にかけてもその葛藤は治りませんでした。
人によってはこの時期が大きくその人の成長を促す時期で、大手の企業に勤めて大金を稼ぐ人が出てきたり、アーティスト活動で有名になる人が出てきたり、政治家になる人が出てきたりと様々です。
その後の人生の方向性が決する時期になることも多いのがこの時期です。また優秀な人とそうでない人とのレッテル分けを社会からされる時期でもあります。
私の場合は単なる会社員にすぎませんが、ある程度普通の生活を送れています。
それでもいまだに生きる意味とはなんなのかを考えてしまいますし、そのように考える人は恐らく多いのではないでしょうか。
それはなぜか?と考えた時、多分置かれた状況にもよりますが、本章の冒頭でもお伝えしたようにこの年にして明確な目的が見当たらないこと、まだまだ人生の先が長いこと、期待していた人生の自由度も年々増えるどころか減っていること。
このようなことが要因しているのではないかと思います。
特に人生の自由度が増えないこと、これが非常に問題だと思っていて、確かに30代といえば働き盛りだと言われているので、致し方ない部分もありますが、そうだとして40代、50代になった時、必ずしも自由度が増えている確証もないのです。
これでは人生になかなか希望は見出せません。
40代、50代
実際勤めている会社を見てみても、40代、50代、ひいては60代、70代の人たちもせっせと働いています。
20代、30代以上に働いているのです。
上が働いていると下は当然サボれませんので、そのような状況を良いとは思えません。全く休めた気持ちがしません。
早く引退してくれてと思ってしまうのです。
またそのような人たちを見ていて、すごいなぁーと思う一方で、自分達も将来このように働かなくちゃいけないのか、と絶望も同時にしてしまうのです。
もちろん働くことはいいことです。自分の好きな仕事であれば、その仕事が人生の生きる目的になる人もいるでしょう。
しかしみんながみんなそうではないし、仕事が果たして本当の「人間の生きる意味」なのか?と考えた時にやはりそうではないと思うのです。
働くこと、仕事に人生を捧げてしまって良いのかと思う気持ちがあるのです。
近くにいる50、60、70代の方々を見ていて、なぜそこまで仕事を頑張れるのか疑問です。自分にはとても無理だなと考えてしまうのです。
同時に羨ましくもあります。
50、60、70代になった時果たして自分もあのように一生懸命になれるものがあるのか?あるいは生きる意味が見つかっているのか不安に思ってしまいます。
生きる意味を見つける方法

ブッダは人生に生きる意味はないと言いました。
しかし仮にそうだとして、それだけでは人間の迷いは払拭されません。
ここでは肝心の生きる意味を見つける方法について私なりに考えたことをお伝えしたいと思います。
- 目標を探す
- 趣味を探す
- 自分の幸せとは何なのかをきちんと考える
- 人とたくさん会うことを目的にしてみる、コミュニケーションをとることは人だけの特権
目標を探す
まずは目標を探すところから始めてみたいと思います。
私には目標がありません。
だからこんなにも生きる意味を考えてしまうと思うのです。
しかしどのように目標を探せばいいのかわからないので、よく聞かれる目標の探し方について今回シェアいたしますね。
ぜひ皆さんも参考にしてみてください。
- 理想の状態を考える
- やりたいことややりたくないことを書き出す
- 子どもの頃に夢中になったことや夢を思い出す
- 自分の長所や得意を知る
- 身近な人に自分のことを聞いてみる
- 目標を持っている人に話を聞く
- 最新の情報に積極的に触れる
- 小さな目標を立てて少しずつハードルを上げる
- なりたくない未来の自分の姿を想像する
- お金・時間・人脈を持っていたら何をしたいか考える
- 時間を忘れて没頭できることはなにか考える
- 周りの人より簡単にこなせることを考える
- 努力するのが辛くないことはなにか考える
- 友達や家族に「良いところ」を聞いてみる
- 新しい環境に飛び込む
趣味を探す
人生は仕事だけではありません。
仕事以外の時間も人生には重要です。
プライベートを充実させることで人生はより楽しくなるのです。
そこで新しい趣味を見つけてみたいと思います。
確かに私には趣味がほとんどありませんし、プライベートが充実しているか?と言われればそうではありません。人生に楽しいことや新しい発見がないということに気づいたのです。
また現実問題として、なぜそんなにも生きる意味を考えてしまうのかといえば「考える時間」が多いからだと個人的に思います。つまり暇な時間が多いからなんですね。
その暇な時間を楽しい時間に変えてみることで、人生はより楽しくなるし、暇な時間も無くなるので一石二鳥なのではないか?と考えました。
以下が世間一般で聞かれる趣味の見つけ方です。
- 趣味が必要な理由を考える
- 好きなものを書き出す
- 好きなものをもっと掘り下げてみる
- 趣味を体験できる場所や共有できる人を積極的に探してみる
- ちょっとでも気になったら、とりあえずやってみる
ちなみに私には趣味はほとんどありませんが、その中でも「書くこと」、「読書」することが唯一の趣味です。
また世間一般でおすすめされている趣味には以下のようなものがあります。
- 読書
- 音楽鑑賞
- 映画鑑賞
- 料理
- 散歩やランニング
- 手芸・クラフト・DIY
- 写真撮影
- ヨガや筋トレ
- 囲碁や将棋、チェス
- 瞑想
自分の幸せとは何なのかをきちんと考える
ただ目標や趣味だけでこの問題を解決しようとしてはいけないとも思うのです。
そこで今一度自分の幸せとは何なのかをきちんと考える必要があるな、と思いました。
例えば私の場合、かなりのんびりな性格をしているので、のほほんとした場所、静かな場所で生活を送りたいという願望が常にあります。
また食事をすることも大好きなので、自分が好きなものを食べたいし、料理もしたいし、食事を摂る時間を多くしたいという願望もあります。
さらに私には両親や数少ない友人が何人かいますので、そうした今までお世話になった人との交友関係の時間をしっかりと取りたいという願望も強くあります。
自分が幸せになるためにはこのような願望を実現する必要があるし、実現するためにどうすればいいのか?をきちんと考える必要があるなと思います。
皆さんも今一度、自分の本当の幸せについて考えてみてください。
人とたくさん会うことを目的にしてみる、コミュニケーションをとることは人だけの特権
これは個人差があるかと思いますが、私は人と会うことがあまり得意ではありません。
その分一度仲良くなった人を本当に大切にします。
先ほども言ったようにその人たちが本当に好きですし、大切にしたいと思うのです。
また私はコミュニケーションが得意ではありませんが、コミュニケーションをとるということは人間だけにしかできないことですよね。
それは確かにそう思っていて、このコミュニケーションを人生の目的に据えたらどうかなとも思うのです。
今はそのためのツールも今たくさんありますよね。SNSとか。
そしてそのSNSを活用すれば、世界中の人と容易に繋がることができるようになりました。
なので繰り返しになりますがコミュニケーションをとること自体を人生の目的にしてもいいのではないかと思うのです。
世界中の人と繋がる、繋がれる。これってすごいことですよ。
個人的には仕事をすることや趣味に没頭すること以上に、このコミュニケーションの時間を増やした方が人はもっと充実した人生を送れるのではないかなと思います。
何というか、これであれば生まれてきた甲斐があったなと思える気がするのです。
せっかく人間として生まれてきたのですから、もっと盛んにコミュニケーションをとるべきだし、そのコミュニケーションを取れることに感謝すべきです。
色々な人と繋がるべきだし、そのためのインフラも整っています。
ただこれはもちろん人によると思うのでぜひ参考の程度で考えてみてください。
生きる意味を教えてくれる媒体
それでは最後に生きる意味を教えてくれる媒体についておすすめな書籍などをメインに紹介しますね。
生きる意味を教えてくれる本
今回の冒頭のブッダの教えに関して、私にわかりやすく教えてくれたのはすでにお亡くなりになってしまっていますが「武井哲應老師」という方が書かれた本です。
この方を知ったのは「相田みつを」美術館を訪れた時です。
書家として知られる相田みつをさんは今や全国で知らない人はいないほど有名ですが、禅の教えを信仰されていたというんですね。
そしてこの武井哲應老師の元で仏教のなんたるかを学んだと言われております。
それでやはりあのような人々の心を揺さぶる名言を数々残されるような人となったんですね。
生きる意味についてしっかりと考えたい時におすすめなです。
生きる意味を教えてくれる名言
その相田みつをさんは数々の名言を残されています。
その中に今回の生きる意味について考えさせられるものもありますのでご紹介します。
しあわせはいつも じぶんのこころがきめる
つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの
雨の日には雨の中を 風の日には風の中を
負ける人のおかげで勝てるんだよな
名もない草も実をつけるいのちいっぱいの花を咲かせて
どうですか?何かヒントとなるようなものは得られましたか?
私は特に一番最後の「名もない草も実をつけるいのちいっぱいの花を咲かせて」というのが好きなんです。
花や草というのは人間とは違い、目標や目的というものはありません。人間と違い彼らの人生は一瞬で消えて無くなってしまいます。
それでも毎年、決まった時期に同じように綺麗な花を咲かせてくれます。
それは以前の花や草とは別の人かもしれない。
しかしきちんと同じように同じ場所で咲いてくれます。花や草には誰かにうまく見せようとか、誰かにうまくみられたいといった「策略」がありません。
ただそこにその場所で自分の命をまっとうしているだけです。
我々人間もどんなに迷っても、その場所で一生懸命生きればいいのではないでしょうか。
仮に自分の人生がどんなにちっぽけなものだとしても、冒頭でもお伝えしたように自分の命には確実に意味があって、自分がただ生きているだけでも一つの大きな箱の中で役割を果たしているのですから。
なので仮に生きる意味がわからなくても、ただ生きていくというだけもいいと思うのです。
私の命は私だけの命ではなく、大きな一つのまとまった命の一員なのですから。

俺宗教者になろうかな、笑。最後までお読みいただきありがとうございました!
生きる意味がわからなくなったに関する疑問
- 「無為に生きる」とはどういう意味ですか?
-
自然にまかせて生きるという意味です。
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