無理して「何者」かになる必要はありません。
ここではその根拠についてお話します。
「何者かになりたい」という思い。
それは誰しもが抱えうる単なる願望に過ぎず、思考でしかありません。
しかし私も同じように悩む時がありましたし、切実な悩みであることに違いないのも事実です。
何かになりたい、何者かになって、社会に認められたい。社会から仲間はずれになれたくない。
そのような焦りの気持ちに駆られてしまうのは非常によくわかります。
しかし「何者」にもなれないというのは、むしろ幸せなことかもしれませんよ。
何者にもなれなくても気にしない
誰しもが何者かになりたいという欲求をもっています。
そもそも我々は生まれながらにして「ヒト」というレッテルを貼らせてもらうことができております。
それ以上も以下もなく我々は「ヒト」であるわけだし、この「何者」という問題は人間社会だけに通用する肩書きのようなものです。
「Aさんは会社の社長だよ」といったところで、動物たちにはそんな肩書きは通用しません。
それに肝心な人間社会においても「私は会社の社長です」といったところで、社長に対する評価とか価値観は人それぞれです。
「あの人社長なんだ!」と驚く人もいれば「かわいそうに、あいつ社長なんだってよ」と落胆する人もいます。
つまり「何者」というのは、人間同士だけに通用する肩書きにしか過ぎないし、仮に人間同士であっても「何者」に対する価値観や評価はバラバラであるわけなので、必要以上に気にする必要はないと思うんです。
「何者」かにならないと幸せになれないというわけではなく、そんな肩書きには人の幸せというのは左右されないと思うんです。
まったく関係のない話だと思うんです。
仮に「何者」にもなれないとしても本人の気持ちの持ちようで十分幸せに生きていけると思うんですね。
現に私は「何者」でもありません。
それでもこうして幸せに生きています。
人間は何者かになりたいという願望が強い
確かに私にも「何者」かになりたいと思っている時期がありました。
なぜ人間は「何者かになりたい」と思うのでしょうか?
例えば私の場合m昔からアニメとか大好きだったので、アニメの登場人物のように「特別な存在」になりたい、「誰かに必要とされる人間になりたい」。「誰かの役に立つ存在になりたい」。
そのような願望にかられていた時期がありました。
しかし当然アニメの世界観というのは作者によって作られた架空のもので、それに魅せられているに過ぎないわけです。
そして「現実の世界」と「自分の憧れた世界」はまったく別のベクトルで、社会が成り立っていることに気づけなかったんです。
つまり私の存在意義なんて誰も気にしちゃいないということです。
それでも「人間」は何者かになりたい。
仲間外れにされたくない、後ろ指をさされるかもしれないから。
このような不安をだんだんと募らせていくんですね。
私の場合特に高校生~成人になるくらいまでの時期にかけて「何者かになりたい」という願望を強くもっていた気がします。
成人してからというものそこまで気にすることはなくなりましたが、育ってきた環境や、触れてきたコンテンツは違えどこの「何者かになりたい」という願望は、人間に共通した願望のような気がします。
社会はステータスを気にする
おそらくそれは、人間社会が大きく関係していると思うんですね。
人間はコミュニケーションをとる生き物で、共通の価値観をもっていることを必要とされます。
じゃないと仲間外れにされるからですね。
いじめられるからです。
例えば平社員と社長とでは、他人からの評価が違いますよね。
ニートと平社員とでも、社会からの視線は異なります。
ニートでいることに対して社会は凄く冷たい視線を送ってくるし、当事者はとても肩身のせまい思いをさせられます。
これが仮に周りの人間からの評価や、変に共通した価値観がなければ、そんな肩身のせまい思いをしなくて済むはずです。
もっと自由に生きていけるはずです。
しかし我々は「人間社会」に身を置いている以上、これは絶対につきまとう問題だし、決してなくならない問題です。
社会はステータスや肩書きを気にするんです。
そして現代社会ではその肩書きこそがすべてなんです。
何者にもなれないままだと、なぜ焦ってしまうのか?
だから何とかステータスや肩書きがほしくなるんですね。
現にどんなにフリーでお金を稼いでいようが、社員じゃないと賃貸を借りることが難しくなったりすることがありますよね?
そういう人間は保証人が必要だったり、そもそも家が借りられなかったりします。
つまり社会から信頼されていないんです。
結果こうした不当な扱いを受けてしまうんです。
しかも冷たい視線を向けられたりですね。
いいことがまるでないように思えてきますよね。
だからなんとか「何者」かになろうと思うんです。
何故ならいま述べたような理由があるからです。
いつの間にか「生きること」が目的から外され「何者かになること」が目的になってくる。
そして「何者にもなれないまま」だと焦りの気持ちがわいてくる。
しかしこの焦りは、本質的なものではなく、社会のそういった暗黙のルールのせいで次第に植え付けられていったものだということを忘れてはいけないと思うんです。
我々は少しだけ頭がいいだけで、実際はその辺にいる「虫」や「猫」、「犬」と変わらない命を生きています。
何者にもなれない、世代ごとの悩み
昔から続く風習のせいで、われわれ人間は物心ついた時から「何者かにならないといけない」という強迫観念をいだきながら生きていかなければなりません。
いつの間にか「何者かにならなければいけない」というのが我々にとって、引きはがすことのできない悩みになってしまったのです。
何者にもなれない大学生、彼らの悩み
大学生になると、将来のことを真剣に考えはじめる歳です。
実際にアルバイトなどをして社会活動に加わることも多くなるでしょう。
社会の厳しさにふれ、不当な扱いを受けない為にも、異性や同性からバカにされないためにも「何者かになりたい」と強く思うようになるはずです。
しかし彼らはすでに「大学生」というレッテルを得ています。
つまり「学生」ですね。
なので現状というよりは将来的に、
- 「何者」かになりたい。
- 周りにバカにされないように「何者」かにならなくちゃいけない。
このような不安をいだく「大学生」が多いはずです。
また「大学生」というと、まだまだ幼いです。
世界を変えたい、アニメのキャラクターのように特別な生き方をしたいというような希望を強く持っています。
大学生というせっかく楽しい時期に恵まれているのに、変な焦燥感に駆られたりしていませんか?
そんなつまらない悩みはほっておいて、今を存分に楽しんだほうが絶対に幸せですよ。
何者にもなれない20代、彼らの悩み
「大学」を卒業してからの20代。
「大学生」というレッテルはもう通用しません。
20代は社会では立派な大人の扱いですが、中身は大学生と何ら変わりません。
まだまだ幼い考えをもっていたり、何者かになりたいという願望を強くもっていたりします。
そのせいでせっかく就いた職業に対し、不満を覚えたり、現状に不満を抱いたりするんです。
いまの現状は本当の俺じゃない。俺にはもっと特別なことができる。
特別な何者かになりたい。
誰かに誇れるような特別な存在や能力に恵まれたい。
そんな考えのせいで、現実社会と自分の理想とのギャップに余計に苦しんだりするんですね。
実際の社会は特別なことはなにもありません。
若者が思い描くような社会ではないのです。
厳しく、泥臭いそういう社会なのです。
その現実と自分の願望のギャップで一番苦労する年齢です。
何者にもなれない30代、彼らの悩み
30代にもなると、おかれている境遇はそれぞれ異なります。
中には結婚している人もいるだろうし、子供の親になっている人や、社長、有名人、世界を動かすような仕事に就いている人もいるかもしれません。
それでもやっぱり何者かになりたい、つまり「何者」にもなれていない自分に気づくのです。
現に私がそうですね。
私も世界を動かすような仕事ではないものの、社会人として毎日せわしく働いております。
しかしこれまで自分が、「何者」かになれたという確かな感触をつかんだことはありませんね。
常に自分の存在を疑って生きてきたような気がします。
なぜなのか?と聞かれるとその原因については明確にすることはできませんが、やはり満たされない、満たされたいという欲求に駆られているからだと思います。
もちろんそれは人によると思いますが、現に30代にもなってこのような欲求や不安に駆られているわけですから、似たような人も多いはずです。
つまり「何者」かである証明は、決して社会の肩書きや職業、収入で得られるものではないし、解決できるものではないということです。
この「何者」の正体とは果たしてなんなのでしょう。
30代にもなって、その正体がわからないままです。
何者にもなれなくても幸せになれる。その根拠とは?
でもですね、「何者」にもならなくても幸せだと思うんですよ。
だって私がそうですもん。
確かに「何者」かになりたいという欲求は物心ついたときからずっとありました。
それに今もあるし、これからもなくなるものではないのかもしれません。
しかしだからどうした?って話なんですね。
そんな悩みとは裏腹におなかは空くし、毎日いきていけるし、好きなことや楽しいことだってできます。
先ほども申し上げた通り、そんな悩みは生命活動においてなんの関係もないのです。
- あなたはオンリーワン
- 何者かになると不幸になる、責任がつきまとうから
- 何者にもなれなくてもそこまで社会活動において不利になるわけではない
- 何者にもなれないというのは、自己肯定ができない人、つまり性格だから気にしなくていい
- 何者にもなれなくても生命活動は続けられる。命とはまったく関係がない
あなたはオンリーワン
もうすでに聞きなれた言葉ですが、そもそも我々は「オンリーワン」です。
あなたも私も世界にたった一人しかいないんです。
「何者」かになる必要なんてまったくありません。
すでに「あなた」は「あなた」で完成しているし、「わたし」は「わたし」で完成しているのです。
この事実は揺るぎようがなく、それ以上も以下もありません。
誰かの真似をする必要なんてありませんし、「何者」かにならないといけないなんてこともまったくないのです。
自分で自分をそのように追い込んでいるだけなんですね。
確かに社会からみれば「あなた」や「わたし」自体には何の価値もないのでしょう。
しかし実際は我々は決して替えの効かない命をこうして生きているわけです。
果たしてどちらの声が本当で、大切にすべきことでしょうか?
何者かになると不幸になる、責任がつきまとうから
また「何者」かになることは、メリットばかりではありません。
「デメリット」もつきまとうのです。
例えば「会社の社長」であれば、責任が多くつきまといますよね。
社員を養っていかなければならないし、自分が大きな問題を起こせば、社員全員に迷惑がかかります。
逆もまたしかりです。
あなたがどこかの企業の社員だとして、何か大きな問題を起こしたとしたら、会社や周りの社員に多大な迷惑をかけてしまうことになるのです。
「何者」かになることで、責任が発生するんですね。
もちろんだからといって大きな問題を起こしていいかと言われればそうではありませんが、責任が発生してしまうことで、これまで気軽に行えた活動だったり、SNS上での発言も行えなくなる可能性があるのです。
「自由に発言できない」、「自由に生きられない」こうしたデメリットは「何者」かになることで確実に生じてしまうのです。
何者にもなれなくてもそこまで社会活動において不利になるわけではない
それに「何者にもなれない」という不安は「単なる思いこみ」であることも往々にして考えられます。
例えば立派な「会社員」であっても「何者にもなれない」と不安に思う人が結構いるんですね。
この「何者」という明確な指針があるわけではないので人間はこの問題に常に悩まされるわけですが、同時に明確な答えがない以上そこまで気にしなくていい問題なんです。
確かに「ニート」より「フリーター」。
「フリーター」より「会社員」。
「会社員」より「経営者」というカーストの段階があって、それが上に進むにつれて、社会からの待遇や周りからの視線が良くなるというのはあると思います。
しかしそんなものが関係してくるのは、せいぜいクレジットカードの発行や賃貸や物件の購入、車の購入などのシチュエーションくらいで、それ以外の状況ではほとんどそのカーストに大差はありません。
ニートであってもファミレスは使えるし、スーパーで買い物もできます。
楽しいクラブに行くことだって、旅行に行くことだって、山に登ることだってできるのです。
なのでそういった肩書きやステータスがあるからといって、必ずしも幸せに生きられるというわけではありません。
むしろ肩書きやステータスがあることによって、責任が付きまとうようになり、肩身の狭い思いをして生きていくことを余儀なくされることだってあるのです。
何者にもなれないというのは、自己肯定ができない人、つまり性格だから気にしなくていい
繰り返しになりますが「何者にもなれない」という不安は「単なる思いこみ」であることが往々にして考えられます。
特にこのような思い込みをされる人は自己肯定が出来ない人、自己肯定感のない人だったりするんです。
しかしそれは単なる性格の一種ですね。
「何者にもなれない」というのは、「自信がない」といっているのとほとんど変わりないのです。
自信のあるひとは仮に「ニート」であっても生き生きとしていますし、肩書きなんかによって、人生を左右されたりしません。
そんな肩書きやステータスに惑わされることなく、人生を楽しむことが出来るし、自分で人生を切り開いていくことが出来るのです。
何者にもなれなくても生命活動は続けられる。命とはまったく関係がない
我々人間の目的は「豊かに生きていく」ことです。
確かに豊かに生きていくためには社会的カーストの上位に食い込むことで、様々な恩恵を受けられるようになります。
そしてその恩恵のおかげで豊かな生活ができたりしますね。
しかし先ほども述べた通り、本人の取り組み方次第で、社会的地位が低くても豊かに生きていくことができると思うのです。
その取り組み自体が実は人生のだいご味で楽しかったりしますからね。
お金に恵まれて、タワーマンションに住んで、高級車を乗り回す。
それが誰しもが望んでいるもので、だれにとっても豊かな生活とは限りません。
それは単に楽な生き方ができるようになるということで、豊かな生活とは「=イコール」ではないからです。
あなたの幸せはあなた自身で見つければいいのです。
それに肩書きやステータスがなくても生きていくことができます。
こうして呼吸をすることができ、食事もとることができます。
健康な体さえあれば、長く生きることだってできるし、余計な悩みも抱える必要もないのです。
ありがたいのは、肩書やステータスは生命活動には一切関係ないということで、みんな平等な命をこうしていただいているということです。
なので「何者にもなれない」と不安に思うのもわかりますが、どうかこのことを考えて、安心して生きていってください。
「何者」にもならなくても、我々は誰にも真似できない最高の人生を歩んでいけるのです。
何者にもなれないに関する質問集
- 自分に劣等感を感じてしまいます。そんな時はどのようにして自分を慰めればいいですか?
-
- 自分自身を受け入れる
- まず、自分自身を受け入れ、自分に厳しすぎないよう心掛けましょう。誰もが自分だけのペースで成長しています。
- 小さな成功を積み重ねる
- 小さな目標を設定し、それを達成することから始めましょう。小さな成功が自信につながります。
- 比較から離れる
- 他人と比較するのではなく、自分自身の成長を重視しましょう。SNSなどで他人と比較する時間を減らすのも一つの方法です。
- メンタルヘルスのケア
- 心の健康も大切です。必要であれば、心理的なサポートを受けることも考えましょう。
- 多様な価値観を受け入れる
- 世の中にはさまざまな価値観があります。自分に合った価値観を見つけ、それに従って生きることも大切です。
- 興味を持つ
- 新しいことに挑戦する勇気を持ち、興味を持って取り組んでみましょう。それが自分の道を見つける手がかりになるかもしれません。
- コミュニティに参加する
- 同じ悩みを持つ人々との交流を持ち、支え合いましょう。それが気持ちの支えになります。
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